無断掲載お許し下さい でも、ちゃんと読んで考えたい その1 |
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「原発労働記」 講談社文庫 堀江邦夫 著 解説 松岡信夫 跋にかえて 堀江邦夫 大学で使っている原子炉工学の教科書を見たことがある。するとその最初のページに、「原子力発電所では決して事故は起こらない。なぜなら、事故を防ぐために、何重もの安全装置がほどこしてあるからだ」といった意味のことが堂々と書いてあった。これは専門家のたいへん自信に満ちたことばである。本当にその通りなら安心できるのだが、実際にはそうした自信にもかかわらず、日本でもまた海外でも、原発で多くの故障や事故が発生し、中には長期にわたって運転を停止する例が少なくない。 たとえば1979年3月28日、米国ペンシルベニア州のスリーマイル・アイランド(TMI)原発二号炉で発生した、史上最悪といわれる事故の例を見ると−。 保守点検の後に補助給水系のバルブを開いておくのを忘れたという、お粗末な“人為ミス”が事故の発端になった。原発では″人為ミス”が重大な事態を招くことはない、という定説があったが、その定説が崩れてしまつた。 教科書にも書いてあるように、原子炉には二重三重の安全装置がついているはずだったのに、TMIではその”多重性”が”共倒れ故障”のため機能しなかったのである。また原発には四重の防壁があって、たとえ事故があったとしても、放射能は内部に閉じこめられるはずであったが、TMIでは放射能洩れを抑えることはできなかった。 事故が発生した場合、原発では非常用のバックアップ装置が働くことになっているが、TMIではこれが予定通り有効に働かなかった。緊急炉心冷却装置(ECCS)はまがりなりにも作動したが、炉心の破損を防ぐという本来の機能は、まったく果せなかった。 こうしたことが、TMI事故を検討した日本の専門家から報告されている。 原子力の利用は、誤まちを許されない技術である。人為ミスにせよあるいは設計ミスにせよ、なんらかの誤まちをおかすならば、人びとはそれ相応のむくいを覚悟しなければならない。原発で発生することが想定される重大事故、仮想事故は、大規模で半永久的に回復できないほどの放射能汚染災害をもたらす恐れがある。日本のような地震多発国では、天災の影響が原発事故などの二次災害に結びつくことも否定できない。またもし将来、原子力施設が増えていくならば、その上に航空機が墜落する確率が大きくなるといっても、誰も笑うことはできまい。海外では、核燃料や放射性物質の陸海上輸送量が増えるのに比例して、核物質を積んだトラックや船の衝突事故が確実に増加している。これらの事故が人間の生活や環境にどんな影響を与えるのか―考えるだけでも不気味である。 石油や石炭を燃料としている火力発電所からも、大気汚染、水質汚染、熱汚染などの公害が発生する。他方、原子力発電所では、眼に見えるものとしては温排水による熱汚染の影響があるが、とくに放射能による汚染は人の五感で判断しにくいものだけに、かえって厄介なしろものである。発電所の原子炉の中では、ウラン燃料の核分裂によって熱エネルギーが生じ、水を沸騰させ、その蒸気の力でタービンが回転し、発電機を動かしている。電力の生産量に比例して、原子炉の内部、燃料棒の中には大量の放射性毒物がたまっていく。 私たちが心配するのは、炉心が溶融するような最悪の事故が起こった場合、放射性毒物が外の環境の中に流出し、破滅的な災害をもたらすことだが、それだけではない。原発が平常に運転されているときでも、いくつかの技術的な理由により、微量ではあるが周囲の環境に放射能が漏れることは避けられない。もちろん、この本の中で著者が体験を語っているように、原発の内部で働いている従業員の放射線被曝は、きわめて憂慮すべき深刻なことである。とりわけ、電力会社の社員よりもむしろ″原発ジプシー”の名で呼ばれる下請労働者の被曝量が高いことが気にかかる。最も近代的な技術であるとされる原子力の利用が、まるで前近代的な下請制度で支えられていることは皮肉でもあり、大きな矛盾でもある。このことについては、本文を読まれれば、十分に理解していただけるだろう。 ところで専門家は、放射線を浴びることによって生じる障害を、身体的障害と遺伝的障害に区別して説明している。身体的障害には急性障害と晩発性障害があり、ガンや白血病などは晩発性に属すものである。遺伝的障害としては、遺伝子の突然変異や染色体の巣常による胎内致死、幼児期致死、異常型態、機能障害、不妊その他の例が挙げられる。前にも述べたように、放射線はそれを浴びているときには、人間の五感でとらえにくいものだけに、後になってその影響と考えられる障害や症状が現われても、その原因を特定できにくいという難点がある。その意味で、放射線はまさに”姿なき殺人者”の役割を演じる可能性が十分にあるのだ。 原発について考えるとき、核燃料サイクル全体の過程から原子力発電の部分だけを切り離して、その善悪を云々する人がいるが、私としては、核燃料サイクル全体の構造や過程をできるだけ正確に理解しておかないと、原子力利用の当否について適切な判断を下すことはできないと考えている。では核燃料サイクルとは何のことだろうか。 まずウラン鉱石を探して、それを埋蔵地から採掘する。次に鉱石を精錬・精製し、濃縮し、成形加工して燃料棒を作る。それを発電所の原子炉で使った後は、プールで冷却し、再処理工場へ運んで核分裂生成物(死の灰)を取り除き、プルトニウムという物質を分離する。再処理工場は放射能で汚れやすい最も危険の大きな場所でもある。またこの過程で生じる低・高レベル放射性廃物を長年にわたって、環境や生物に影響を与えないように管理する、という仕事もある。原子力発電を中心にすると、核燃料サイクルの前半の部分、つまりウラン燃料を生産する過程を上流と呼び、後半の部分、つまり使用した核燃料を再処理して再利用できるウラン燃料やプルトニウム燃料を分離したり、死の灰や低レベル放射性廃物を管理する部分を下流と呼ぶ。 日本ではいま商業用の発電に使われている原子炉が全部で27基運転中である。その出力は合計1970万キロワット、火力、水力、地熱なども含めた日本全体の発電容量の中で約14パーセントを占めている。日本のエネルギー政策を立案する総合エネルギー調査会原子力部会が84年に発表した試算によると、原子力発電の出力は1990年には3400万キロワット、2000年には6200万キロワットと、現行の三倍以上に増える見通しになっている。もとよりこれはあくまでも試算であり、目標数字であるから、この通り実現するかどうかさだかではない。 これまでウラン燃料と濃縮ウランははとんどすべて海外から供給されてきたし、また使用ずみ核燃料も大部分がフランスとイギリスに委託され、再処理されてきた。低レベル放射性廃物を詰めたドラム缶(平均200リットル)は原発の敷地内に貯蔵されてきたが、その数は年ごとに増加し、全国の原発の敷地で37万本以上に達している。日本政府は数年前、その一部を太平洋に実験投棄することを計画したが、国内外から反対の声が強まった結果、政府はこの計画を事実上停止せざるを得なかった。 いま政府と電力産業界は新たな核燃料サイクルの確立をめざして動き出しつつある。先に紹介した総合エネルギー調査会(原子力部会、同基本政策小委員会)の報告書「自立的核燃料サイクルの確立にむけて」(1984年7月)は、これから90年代にかけて、商業ウラン濃縮工場、商業再処理工場、低レベル放射性廃物の敷地外施設貯蔵の、″三点セット”といわれる計画を実現することを明らかにした。いまのところこの”三点セット”が設置される有力な候補地として、青森県の六ヶ所村を推進側はあげている。これとは別に、北海道の幌延町に高レベル放射性廃物の貯蔵研究施設を設けようとする動きも、表面化してきた。 これらの計画は、はたしてうまくいくだろうか?たとえば再処理工場だが、米国の商業再処理工場はいずれも放射能汚染のため閉鎖されており、もしそれを再開しようとすれば民間の資金だけではとてもまかないきれず、政府から巨額の資金援助を受けなければならないとあって、再開の目途は立っていない。日本は先述のように、フランスとイギリスの再処理工場に頼っているが、それらの国でも環境運動グループなどが、自分たちの住む地域を「日本の核のゴミ捨て場にするな」と要求し始めている。また今年の9月、フランスのラアーグ再処理工場から日本に送還されるプルトニウムに対しても、海上輸送の危険性などを理由に、英海員組合やグリーンピースなどの団体が反対運動を展開している。ヨーロッパでは放射性物質(六フッ化ウラン)を積んで航行中のフランスの船(モンルイ号)が、ベルギー沖で西ドイツの客船と衝突し、核物質の運搬船が沈没するという事件が起きたばかりである。 このように、日本の原子力利用は、カナダや米国やオーストラリアの先住民居住地でのウラン採堀にせよ、人種差別で悪名の高いナミビアからのウラン購入にせよ、またヨーロッパでの再処理にせよ、はたまたそこからのプルトニウム送還にせよ、つねに国際的な波紋を呼び起こす可能性があるのだ。私は英仏海峡のある島に家族と共に住んでいる一人の日本人女性を知っている。何年か前、ラアーグの再処理工場から漏出したと考えられる放射性物質によつて、海峡の水産物が汚染されていることが明らかになった。その工場で日本からの使用ずみ核燃料も再処理されていることを知りおどろいたかの女は、「はたして日本人はこうした事実を知っているのでしょうか」との手紙を、母国の肉親に送ってきた。 日本人は核兵器の最初の被害国として、多くの人びとが核兵器反対の運動に参加している。それはいいことだし、必要なことだが、日本は逆に原子力の「平和利用」によって、放射能汚染の加害国になりつつあることも忘れてはなるまい。 それだけではない。原子力の利用は将来の世代に対しても、負の遺産を残すことになる。原子炉の耐用年数は長くても30年ぐらいである。事故などでもっと早く寿命が尽きる場合もある。それに比して、死の灰や廃炉は長い間、被害が生じないように厳重に保管しなければならない。その中には、将来何万年、何十万年にわたって、危険な放射線を出し続ける物質もある。私たちの世代がせいぜい何十年かにわたって電力を消費し、近代的な生活をたのしむために、その汚ない危険な廃物をそれはど長い間、後世の子孫たちに残すことが、はたして道徳的に許されるだろうか。これもまた私たち一人びとりがまじめに考えて回答を出さなければならない一つの問いである。 原子力の「平和利用」から軍事利用への転用の可能性についても、ひとこと語らないわけにはいかない。使用ずみ核燃料から再処理工場で分離されるプルトニウムは、ごく微量でも肺に吸着されれば、放射線によって肺ガンをひき起こす恐るべき物質であると同時に、それは長崎に投下された原爆の材料でもあった。プルトニウムを持つことは、事実上、核兵器の潜在的な保有国となることである。1974年にインドの「平和的核爆発」実験がそれを証明した。原子力の「平和利用」と軍事利用の間には、紙一重の差しかないことを銘記しておきたい。 米国のカーマギー社の核燃料工場に勤務し、職場のプルトニウム汚染のひどさを告発しようとした女性技術者カレン・シルクウッドは、自動車事故と見せかけた謀殺事件により、沈黙を強いられた。カレンの事件は昨年米国で映画化され、大きな反響を呼んだが、間もなく日本でも上映されることになっている。この事件は多くの教訓を与えるが、最大の教訓は高度の原子力社会はきわめてきびしい管理社会をもたらす、ということだ。 フィジカル・プロテクション=物理的保安対策、つまり核ジャックやテロリストの潜入を防止するという名目で、原子力関連施設やそこで働く人びとが厳重な警備と監視体制の下に置かれるだけでなく、一般の住民もまた人権を無視した監視や干渉を受ける可能性がある。原発反対運動についての情報収集(スパイ行為)、盗聴、買収、脅迫など有形無形の圧迫が強まる恐れがある。勇気をもって事実を明らかにしようとするカレンのような内部告発者は、抹殺されてしまう。原子力利用に関する報道や批判の自由も奪われるとすれば、それはもはや人間が安住できる社会とはいえない。 次に原発の経済性について若干述べておきたい。原発の発電コストは、これまで他のどのような電源よりも安いとされてきた。ところが最近ではこの”経済性神話”もまた、しだいに崩れようとしている。すでに米国では電力需要の低下、高金利、原発建設費の急上昇といった理由によって、原発の新規建設はほとんど見送られている。ゼネラル・エレクトリック社やウェスチングハウス社など、大手原子炉メーカーは必死になって海外の輸出市場を探し求めている。米国の原子力産業は”冬の時代”を迎えたといえよう。 一方、日本でも原発で生産される電気のコストは、決して安いものではなくなりつつある。資源エネルギー庁の試算によると、1983年に運転を始めた原発の発電コストは、1キロワット時当たり12円50銭だが、これに比して石油火力は17円、石炭火力は14円となっている。石炭と原子力の差はわずか1円50銭に縮まった。84年には石炭が値下げするので、その差はさらに80銭になる、という予想もある。原発の12円50銭にはバックエンド費用といわれるもの、すなわち放射性廃物の貯蔵・処分費用、廃炉費用が含まれていない。それらに要する費用は発電コストの10パーセント程度といわれるから、それを加えると原発の発電コストは13円75銭になり、石炭火力と25銭の差しかなくなり、84年にはそれが逆転する可能性もある。 原発の発電コストがこのように高くなった原因は、米国と同じように、建設費が高騰したことにある。出力1キロワット当たりの建設費を比較すると、71年運転開始の場合8万8000円、82年運転開始のものは22万2000円、それが88年運転開始のものになると、なんと47万6000円に上昇する。こうした原発の建設費にせよ、また先に述べた核燃料サイクルの”三点セット”の建設費にせよ、それらはすべて一般消費者の負担、または国民の税金からの支出によってまかなわれるのだ。原子力船“むつ”に要した膨大な出費とむだ使いを思うとき、なぜ原子力利用技術の研究開発だけが優遇されるのか、という疑問を抱くのは、私だけではあるまい。 これまで原子力利用をめぐる不安な面について多く述べてきた。「それにしても」と反論する読者もいるかも知れない、「石油の価格が高騰したり、その供給が困難になった場合、よりよい代替エネルギーが実用化できるまでは、たとえ悪とは知りながらも、過渡的に原子力に依存せざるを得ないのではないか」と。 それに対する答えとしては、原子力が石油に代替できるのは、発電に使われている面だけであって、自動車の液体燃料だとか化学工業の原料といった点では、決して代替できるものではない、といわざるを得ない。逆に核燃料サイクル全体を円滑に動かそうとすれば、直接、間接のエネルギー需要面で、かなり多くの石油に頼らざるを得ないだろう。本質的に石油は原子力がなくても成り立つが、原子力は石油がなければ成立しない技術である。両者の問に売全な互換性はないのだ。 人口の増大や福祉の向上にともなって、エネルギー需要の増大も必然となる、という主張もある。だがこのような主張に単純に同意するわけにはいかない。というのは、エネルギー消費の拡大を続けていけば、いつかは資源と環境の限界に直面することは眼に見えているからだ。とりわけ環境面での限界の兆候は、私たち日本人がこの二、三十年の高度成長の過程で、すでに局地的に体験してきたところである。私たちはそれを地球的な規模にまで急いで拡大する必要が、どうしてあるのだろうか。 私たちの課題、とりわけ先進工業国に住む人びとの課題は、エネルギーや資源の浪費をやめること、エネルギーを効率的に利用するための技術や政策をとり入れ、個人の生き方をも改めることによって、エネルギーの需要を減らしていくことである。1970年代の二度にわたる″石油ショック”の後、日本の産業界は省エネルギー技術の開発面である程度の成功をおさめた。エネルギー高価格時代の到来によって、一般消費者のエネルギー消費志向にも一定の変化がみられた。とくに79年の”第二次石油ショック”以後は、一次エネルギーの総需要が連続三年間もマイナス成長を記録したにもかかわらず、経済は毎年一定の成長をとげたことは注目に価する。総生産に対するエネルギーの原単位も確実に低下した。 一方でエネルギー利用の効率化の道を求めながら、他方で再生可能エネルギー利用の道を拡大することが可能だし、また必要でもある。日本は″資源小国”といわれてきたが、こうした“常識”に屈することは好ましいことではあるまい。日本は各地域で利用できる自然エネルギーにはむしろ恵まれている国と考えてもいいのではないだろうか。産業界でも太陽電池の研究開発を積極的に進めており、将来有望な市場が開かれるものと期待されている。各家庭での太陽温水器の普及率もめざましかった。 こうした70年代から80年代初頭にかけて生じた熱気は、OPECが原油価格を値下げし、供給が安定を続けていることから、一時沈静しているようだ。こうした時期こそ、将来の長期的な道筋をじっくりと考え、対策を用意するのに適していよう。 最後に、文字通り足で歩き、体を張って得たこの貴重な記録が、文庫版の形でさらに多くの方に読まれることを心から願って、筆をおく。 1984年9月10日 〈この解説のために、原子力技術研究会編、第三書館刊『原発の安全上欠陥』、及び「日経ビジネス」1984・7・23所収『原発は本当に安いのか』を参考にした) (市民エネルギー研究所代表) 跋にかえて 堀江邦夫 まず、このたびの東日本大震災で被災された皆さまに心からのお見舞いを申し上げます。被害にあわれた地域には私の古くからの友人や知人たちも暮らしていて、そのなかのひとり、Sさんの消息がなんともくやしいことに、いまだつかめずにおります。最後にお会いしたのが、たしか10年ほど前、駅前で別れるさいに見せたSさんのはにかんだようなその笑顔を想い浮かべつつ、この稿をしたためております。 2011年3月11日の昼下がりに東日本を襲った今回の巨大地震は、福島県の太平洋沿岸に建ち並ぶ東京電力福島第一原子力発電所にも多大な影響をおよぼしました。厚いコンクリートで覆われた原子炉建屋が次々と爆発、周辺地域住民には避難や屋内退避命令が発せられ、高濃度の放射性物質も各地で検出、その汚染は土壌から海水、地下水、各種作物、さらには水道水にまで及んだ…事故発生からやがてひと月がたとうとしている現在にいたっても、まだ予断を許さぬ緊迫した日々が続いています。 吹き飛んだ外壁、むきだしになった鉄骨の束、乱雑に折れ曲がった鋼管、地上に散乱する石や鉄などの瓦轢。まるで巨大な廃墟でも見ているようなそんな不気味で異様な姿をさらす発電所構内、そうした画像がテレビに映し出されるたびに、かつての面影をそこに見出そうとしている自分に気づき、いたたまれぬ思いのなかであわてて目を伏せてしまうのがつねです。 今回大事故を起こした福島第一原発は、かつて下請け労働者のひとりとして原子炉の奥深くにまで入り込み、放射能の恐怖におびえつつ被ばく労働に従事してきた、まさにその原発でした。 それからかれこれ三十余年、今回の原発事故発生にともなってマスコミ関係者や知人たちから額繁にご連絡を頂戴するようになりましたが、そのさいに異口同音に決まって尋ねられることがひとつありました。 「現在の原発内労働はどうなっているのか。まさか三十年前と同じということはないですよね」 この本を読んで下さった方々の多くも、やはり同じような疑問を抱かれているのではないでしょうか。 そこで、いささか跋文らしからぬ記述になるやもしれませんが、この場を借りて皆さんのそうした疑問に簡単にお答えしておこうと思います。 原発で働いていた当時の同僚や、その後の取材で知り合った人びとのなかには、おりにふれて連絡を取りあい、あれこれ話を聞かせてくださる方もいて、そうした彼らがもたらしてくれるさまざまな話のなかには、労働現場の詳細をはじめ、彼ら自身や家族にまつわる人生模様の数々といったものも含まれていて、それら情報の一端をここで紹介させていただくのがもっとも適切な回答になるだろうとは思うものの、しかしその一方で、かつて原発で一年はど働いてきた、そのわずかな日々を綴るだけでかなり厚い本になってしまったことを考えると、その後の三十年余の出来事をあれこれ長々と綴っていったなら、それこそ本文より後書きのほうがページ数がはるかに多いという、なんとも据わりのよくないおかしな作品になってしまいますし、なにより、死の淵を過去二度にわたって彷徨し、太い人工血管を全身に埋め込まれ、およそ考えつくかぎりの後遺症に次々と襲われ、そしていまでは「リハビリ難民」となってしまっている自分のからだのことを考えあわせますと、そんな長丁場の話など到底できそうもなく…といった泣きごとめいた話はともかく、皆さん方の疑間にはなんとしてでもお答えしたいものだと考えた未に思いついたのが、大学のかつての教え子さんたちに協力をあおぎ、一枚の図表をつくりあげることでした。 別掲の図をご覧ください。わずか一枚のグラフですが、そのなかにはじつにさまざまな情報が含まれていて、図をながめるだけでもその後三十年の様子が浮かび上がるしくみになっています。 まず注目していただきたいのは、被ばく量の推移です。日本の軽水炉型商業用原発は、1970年の敦賀発電所(日本原子力発電株式会社)の営業運転開始を嚆矢として、以後、国内各地に急速に拡がってゆくのですが、それにともない被ばく量は年々激増、私が原発で働いていた当時(1978〜79年度)にはまさにそのピークに達していたことがわかります。そして、では私が原発を去って以降はといいますと、被ばく量はやや下降傾向を示すものの、それは十年余しか続かず、1991年度以降はふたたび増加の様相をみせています。つまり、原発現場における被ばく量は、私が働いていた当時にくらべると幾分低くはなっているものの、年々増加する気配をみせていることがわかります。そしてなにより、今回の福島第一原発事故によってその被ばく量は一気に増えることはまちがいなく、私が働いていた当時に記録した過去最大値をはるかに超えてしまう恐れも充分に考えられます。 さらにこの図は、もうひとつの事実を私たちに教えています。それは、電力会社社員の被ばく量と、それ以外のいわゆる「協力会社」と称される外部企業の従業員やそこの下請け労働者たち(グラフでは「非社員」と表記)の被ばく量のその格差のほどです。原発内では電力会社社員の姿をほとんど見たことがない、という話はこの本のなかでも幾度か記述していますので、読者の方はすでにおわかりだと思うのですが、ネット上の書き込みなどを読んでいると、原発は電力会社社員だけで運転されていると思い込んでいる人が少なからずいることに驚かされます。それはともかく、電力会社社員と非社員の被ばく量の違いは、図をご覧いただければ一目際然。ちなみに2008年度における電力会社社員の被ばく量は、全体のわずか3パーセント程度にすぎません。つまり、原発内の放射線下の作業のそのはとんどは、「協力会社」という名の関連会社、およびそこの下請け会社の労働者たちに委ねられているという事実、そしてさらには、私が働いていた当時にくらべ、電力会社社員の被ばく量だけは着実に減少しているという事実、といったことなどもこの図から読み取れます。 この一校のグラフは、これまで述べてきた以外にもまださまざまな事実を教えてくれているのですが、それらについてはまたいつか別の機会に譲るとして、ここでは、この図を見るにあたって、じつはもうひとつ重要な事実をそこに重ね合わせてみる必要がある、といった話を付け加えておくことにします。 放射能が人体に与える影響のほどについては、現在においてもまだよくわかってはいない―という事実がそれです。 たとえば、いま手元に一冊の報告書があります。原発労働者たちの被ばく量の一元的な登録・管理などを主業務とする財団法人「放射線影響協会」、その協会が最近発表した報告書の冒頭部分にも、《低線量域放射線の被ばくを受ける人体への健康影響については未解明の点も多く》云々とあり、それに続けて、《疫学的調査》の必要性を強調しているのです(文部科学省委託『原子力発電施設等放射線業務従事者等に係る疫学的調査・第W期』)。 繰り返しますと、放射線による被ばく、とりわけ低線量の被ばくについては、《未解明の点》がまだまだ《多く》残っている、《疫学的調査》が必要だ、というのです。 日本で最初の商業用原子炉が運転開始したのは、1966年。一方、この報告書が発表されたのは、つい最近の2010年。この間、四十年余。このほぼ半世紀にもおよぶ歳月のなかで、じつに大勢の労働者たちが原発内に入り、現在の科学をもってしても人体への影響がよくわかっていないというその放射線を浴び(せられ)続けてきたという事実、これははたして何を物語っているのでしょうか。 今回の福島第一原発事故では、消防士や警察、自衛隊の人びとが放射線を浴びながら懸命の復旧作業に取り組み、その様子はテレビ・新聞などのメディアでも大きく取り上げられ、広く人びとに感動を与えました。英雄的行為だ、勇気をもらつた、涙が止まらなかった、まさに決死隊だ…ネット上でも隊員たちの行動を賞賛する声が数多く寄せられていました。かくいう私もまったく同じ思いで、というより、もっと正直にいうなら、涙をこらえつつテレビ画面に見入っていたひとりです。たとえ仕事とはいえ、目に見えぬ放射線にさらされながらの作業はそれは不安だったでしょうし、ご家族の方々の心痛も並大抵のものではなかったと推察いたします。テレビに映し出された彼らの懸命な復旧作業の様子は、かならずや見た人びとの脳裏にいつまでも感動をともなって残ることでしょう。そして―その懸命な復旧作業の場面をいつの日か思い浮かべられたときには―この本のなかでも繰り返し述べてきたような、テレビに映ることも、人びとに感動を与えることも、賞賛されることもなく、コンクリートに囲まれた原子炉内の暗い暑い現場にはいりこみ、日々、放射能をその全身に浴びながら、ただひたすら黙々と働く下請け労働者たちがいることを、さらには、彼ら労働者たちの被ばく作業無くして原発は決して動かないのだ、との重い現実にも想いを寄せていただけたら、と思います。 最後にこの本についてひとこと述べておきます。 かつて私は『原発ジプシー』と題する作品を現代書飴から単行本(1979年)で、ついで講談社から文庫版(1984年)として発表してきました。そしてこのたび『原発労働記』を講談社から上梓することとなったのですが、『原発ジプシー』と『原発労働記』とでは、やや似て非なる作品であることをお断りしておかねばなりません。原発での私自身の労働体験を綴っている点は共通しているものの、それ以外の、たとえば仲間の労働者たちの詳細であるとか、彼らがいだくさまざまな心情といったものについては、『原発労働記』ではかなりの部分削除しております。そうした内容の違いゆえに書名も新たにした次第です。 末筆になってしまいましたが、貴重な写真を提供してくださったのは2名の優れたジャーナリストの柴野徹夫さんと西山明さん。イラストレーターの藤井康文さんには精緻にして迫力あるイラストを措いていただいた。30年も前の体験を記した本を見つけ出し、装いも新たにふたたび世に送り出して下さったのは、講談社文庫出版部の奥村実穂さん。非情にも病み上がりの私のその尻をたたき、叱咤激励のメールを連日連夜送りつけ、お互いに言いたいことを言いあったこの数十日間は、いまにして思うと、衰弱した私の心身を少しでもリハビリしてやろうという奥村さんの秘めたるも慈愛に満ちたご配慮ゆえであったに違いないとも思われ、感謝のことばもありません。 また、かつて『原発ジプシー』を講談社文庫に加えてくださった野村忠男さんとの共同作業の日々も私の青春の大切な想い出のひとこまとなっております。またさらには、お名前は記しませんが、「毒」を多分に含んだこの作品をなんとか出版してやろうと、社内にあって陰に陽に援護してくださった方々にもこの場をかりてお礼を申し上げます。皆さん、ありがとうございました。 2011年4月10日 |