津軽三味線 山本 大 Tsugaru shamisen Yamamoto Dai

東京で津軽三味線の基本技法を学び、本場津軽、青森で修行を重ね、街頭での路上演奏から活動を始める。 青森県弘前市で開催された2000年度第19回津軽三味線全国大会準チャンピオンを筆頭に、各大会に挑戦し華々しい受賞歴を残す。 スタンダードなソロ演奏から、古い津軽三味線の演奏。津軽三味線だけによる合奏、尺八や和太鼓との演奏も行う。 ジャズ、ロック、クラシック、民族楽器、朗読などの他ジャンルとのコラボレーションなども行い、現代の生きた音楽に果敢なチャレンジを続けている。 自主企画のソロライヴを行い、多国籍な演奏家や個性的な奏者をゲストに招き独自のライヴを行っている。

第20回津軽三味線全日本金木大会『大條賞』受賞

第18回津軽三味線全日本金木大会『A級入賞』

 個人一般A級で入賞しました。

第17回津軽三味線全日本金木大会『大條賞』受賞

 第17回津軽三味線全日本金木大会は5月4、5の両日、金木町公民館で開催されました。金木町が五所川原市と合併して、五所川原市が主催となった最初の大会でした。従って五所川原市長の挨拶で大会は開催されました。出場者は個人181人。団体212組167人、計348人、過去最高の出場者数となりました。

 一般A級
大條賞・山本 大(33歳)『十三の砂山』

第16回津軽三味線全日本金木大会『黒川桃太郎賞』受賞

 受賞祝辞 全日本津軽三味線金木大会 審査委員長 大條和雄

 近年の津軽三味線全国大会は大会用演奏と言いたいようなテクニックを競うスタイルが定着し、それがワンパターン化した感がありました。ある意味では津軽三味線生命の枯渇前兆とも言えましょう。

 津軽三味線発祥の地、全日本金木大会ではこれまでもエンターテイメントとエデュケーションを骨格としていました。今年度からそのことを具体的に演奏で表現する方法として豊富な津軽民謡のメロディを先づ弾き、それをアレンジして曲弾き曲として演奏することにしました。実はその過程と変容が津軽三味線の生命であるオリジナリティである訳です。

 加えて言えば歴史文化の連続性ということなのです。大会要項では「審査について」としてこの主旨を発表しました。この主旨を理解して応えたのが山本大君でした。

 「十三の砂山」は鎌倉時代に津軽に伝えられた唄とも言われる。何ごとも津軽化しないと気が済まない津軽人がほんど津軽化しない唄、それが十三の砂山です。悠長で哀愁のある唄を津軽三味線の曲弾き曲として弾きこなした腕前は大いに賞賛されます。

 何よりハイテクニック多用の綺麗な造花的演奏の多い大会に生命力のある生花演奏で活を入れた山本大君の存在は光沢を放っていました。

 津軽民謡を近代化した黒川桃太郎の功績を称えて設けられたこの賞にふさわしい演奏に拍手を贈りたいと思います。

2006年  ジャパン・ファウンデーション主催、エジプト、カイロの「オペラハウス」にてソロ・リサイタルを行う。

2007年  邦楽ユニット、和三BOMでのトルコ~モロッコ~アルジェリアにて北アフリカツアーを行う。

2010年  プロデューサーDJ永田一直氏と共にオーストラリアで開催された第17回シドニー・ビエンナーレに招待され演奏をし高い評価を受ける。

2014年  福島県会津田島御蔵入交流館にて行われた、津軽三味線五十人衆のリーダーを努め、異なる流派の合奏を成功させる。

2014年  沖縄県嘉手納でひらかれたBIGIN主催の、うたの日コンサートに津軽出身デュオのサエラと出演し、Kiroroと共演。

2015年12月  アルジェリアのアルジェとコンスタンティーヌにて、和三BOMで公演を行う。

2002年より毎年阿佐ヶ谷ジャズストリートに出演する。

津軽民謡、津軽三味線のSPレコードコレクター。蓄音機でのライヴも行う。

出張演奏致します。

イベント、催事、祝典、祝賀会、記念行事、講習会、結婚式、学校行事、ホテル、屋形船、飲食店、ライブハウス、ホームパーティーなど。

条件が合えばどちらでもお伺い致しますのでご相談下さい。

ソロ演奏、津軽三味線の合奏、ジャズバンド、和太鼓と尺八、解説を交えた演奏など、

リクエストがあれば様々な形態で演奏出来ますのでご相談下さい。

(セッションやコラボレーションなども可能です)

2003年発売 
アーティスト/七尾旅人 
アルバムタイトル/ ひきがたりものがたりvol.1蜂雀(ハミングバード)
参加曲 /ぎやまん 
レーベル : Wonderground Music

2010年発売 
ジョニーサンダース トリビュートアルバム 
アルバムタイトル/プラグド・イン-プラグド・アウト
参加曲/Born To Lose
発売元/株式会社ヴィヴィッドサウンドコーポレーション

2010年発売
 アーティスト/サエラ
アルバムタイトル/うた~by 60 sixty 民謡編
参加曲/東京音頭
販売元:クラウン徳間ミュージック販売

津軽三味線を始めてみませんか?全くの初心者、経験者問わず、誰でもお気軽にお越しください。 教室場所 高円寺 浅草 行徳 その他にも受講場所でご希望ありましたら出張教室は3名から可能ですのでご相談ください。 グループレッスンも2名から何名でもできますのでご相談ください。

青森県津軽地方で盲目の旅芸人達が始めた門付け芸。彼らは坊様(ボサマ)と呼ばれ長く蔑まれた。家々の軒先で三味線を弾き歩き、米やお金を貰って歩いたとされる。やがて民謡の旅まわり一座などで弾かれるようになり、名人達の手によってより発展して行く。

昭和、戦後の民謡ブームの頃『津軽三味線』と名付けられ全国へ普及し、民謡の伴奏楽器から、三味線のみの独奏としても弾かれるようになって行った…。

津軽三味線は盲人芸なので本来は楽譜はありません。即興で演奏します。約束の中決まったフレーズなど構成を変えて弾いて行きます。同じ曲でも演奏者によって内容は違い、また、弾く度に内容が変わります。ジャズやブルースのようです。『津軽じょんから節』をひとつとっても演奏者によって構成が違う訳です。そこが津軽三味線の魅力のひとつだと思います。(現在譜面はあります)

演奏方法は、撥を皮に叩きつけるように弾いたり、掬ったりしながら、その合間に指で押したり、はじいたりします。

三味線には、細棹、中棹、太棹があります。それぞれさおの太さが違います。津軽三味線はもっとも太くて重い、太棹(ふとざお)を使います。門付けされていた頃は細棹や中棹が使われていたそうです。

三味線の材料は主に、棹は紅木(こうき)や花梨、糸は絹糸、撥は鼈甲などが使われています。動物の皮が貼られていて、皮の張りの強さで音が変わります。強く貼られた場合は、硬く冴えた、はっきりとした音。張りが弱いと、ボンボンとして丸いような音の響きになります。昔は弱い張りだったそうです。

津軽三味線の音色は地吹雪を想わせるような音。ある時は雪をも溶かす炎のように力強く、人間の悲遇な運命に立ち向かうよう音でもあります。そして時には、か細く透き通る音や、妖艶な響きを奏で、明るく楽しい音であったり、また、風や海、自然音を描写し、大地を賛美する…津軽三味線の音色には様々な表情があります。

青森県北津軽金木町、岩木川の河原に住む一人の男により津軽三味線は誕生しました。

越後瞽女に影響を受けた津軽三味線の始祖『仁太坊にたぼう』(1857~1928)彼は八歳の時に疱瘡にかかり生死をさまよい、失明してしまう。母親は仁太坊を産みまもなく他界。父は岩木川の船渡し守りで、仁太坊が十五歳の時に事故により水死、天涯孤独となる。そして生きて行く為に彼は門付けをし、その日の糧を求め一人三味線を弾き歩きました。筋目悪しき者と蔑まれ、決して豊かな生活環境では無かったそうです。そんな中叩き奏法を自ら編み出し、オリジナルな三味線芸を確立していきます。弟子達へ、「人真似で無く汝の三味線を弾け!」と教え、芸哲学が演奏者達へ受け継がれ、それぞれ弟子達の三味線芸は個性的になって行きます…。やがて仁太坊最後の弟子、津軽三味線の神様と呼ばれた白川軍八郎が(1909~1962)曲弾きを編み出します(三味線の独奏で、曲芸のような弾き方)。彼も又盲人であり、金木の出身で、人真似で無い津軽三味線を編み出しました。また、彼の弟子には三橋美智也さんがいます。彼の日劇で行われた、『民謡生活二十周年20周年リサイタル(昭和34年)』で軍八郎はゲスト出演し、三味線を披露、注目されます。この事などをきっかけに、ボサマ三味線は津軽三味線と名付けられ広まって行ったそうです。現在の津軽三味線の曲弾きは軍八郎の三味線が礎になっているそうです…。

津軽三味線を始めたボサマ達、彼らの多くは疱瘡や麻疹などで失明をしてしまい、まだ少年である彼らのほとんどが家族から絶縁され、米俵などを師匠に納め弟子入りして修業、独立し、生きる為に一人放浪しながら三味線を弾き歩きました。逆境から生まれた魂の叫ぶような音は現代人の心を打ちます。昨今の津軽三味線の普及の根底には、ボサマ達の門付け精神、ハングリー精神によって紡ぎだされた音があると思います。そして“人真似で無い”名人達の創意工夫が、独特の三味線芸術に高められたのかもしれません。ジャズやブルース、サンバなどと発祥が似ています。時代を越え、世界にも通用する普遍的な音楽。この門付け精神を讃え、私は演奏させていただきたいと思っております。

  津軽三味線 山本 大 Tsugaru shamisen Yamamoto Dai

  参考文献

    津軽三味線の誕生 大條和雄

    自伝津軽三味線ひとり旅 高橋竹山