無断掲載お許し下さい
でも、ちゃんと読んで考えたい
その3
詩人 南相馬市 若松丈太郎 氏

『福島原発難民 南相馬市・一詩人の警告
1971年〜2011年』若松丈太郎 著


人間は原子力を制御できない。疑う者はチェルノブイリ、スリーマイル、福島を見よ!若松丈太郎さんはその福島に住み、原子力の不毛に警鐘を鳴らす。まさにまつろわぬ民といえよう。(帯文:新藤謙・批評家)

【目次】
みなみ風吹く日
大熊 ―風土記71
吉田真琴『二重風景』
ブラックボックス
東京から三〇〇キロ地点
連詩 かなしみの土地
原子力発電所と想像力
チェルノブイリに重なる原発地帯
さまざまな地名論
恐れのなかに恐るべかりけるは
批評基準の退化
詩に書かれた原子力発電所
原発地帯に《原発以後》なし!?
原発難民ノート ―脱出まで
赤い渦状星雲

解説 鈴木比佐雄

 私が暮らす千葉県柏市は、上野駅から常磐線快速で30分で到着する。その常磐線で柏から茨城県水戸駅まで約1時間、水戸駅から私の父母の田舎であった福島県いわき駅まで約1時間、そしていわき駅から若松丈太郎さんの暮らしていた南相馬市の原ノ町駅まで約1時で到着できる。直通であれば上野から約3時間20分で上野から原ノ町駅に着くそうだ。常磐線のいわき駅から原ノ町駅の間には、四倉、楢葉、富岡、大熊、双葉、浪江、小高の各駅があり、楢葉と富岡の間に福島第二原発四基があり、大熊と双葉の間に福島第一原発六基がある。3月11日の東日本大震災の時に若松さんは書斎のパソコンで原稿を作成中で、機器ケースや本棚が倒れないように必死に抑えていた。
 若松丈太郎さんは、福島県相馬地方の幾つかの高校で国語を教えてきた元教師であり、今まで10冊近い詩集を刊行してきた詩人だ。そんな詩作活動と連動する形で若松さんは、一貫して原発の問題点を評論でも書き継いできた。南相馬市は福島第一原発から25Hに位置していることもあり、若松さんは福島原発が1971年に発電を開始してから今日まで原発の技術的な危うさとその運営管理の問題点を告発し警告してきた。若松さんの生まれは岩手県だが、福島大学で学んだことや妻が南相馬市出身ということもあり、相馬市の相馬高校、原町区の原町高校、小高区の小高農工高校などの国語教師になり、多くの若者たちに日本語の魅力や言葉で真実を伝えていく大切さを教えてきた。例えば『和漢五名家千字文集成』の井土霊山、『誹風末摘花通解』『川柳辞彙』を編纂した大曲駒村、日本国憲法の成立に寄与した憲法学者鈴木安蔵など、相馬やその周辺の市町村が生んだ個性的な文化人たちの業績を発掘するなど、他の人が顧みない仕事をやり続けている。また埴谷島尾記念文学資料館の調査員であり、相馬出身の埴谷雄高と島尾敏雄を後世に残す仕事もしてきた。その意味で若松さんはこの南相馬市の魅力を異邦人の眼差しで発見し、いつしか真の故郷と感じてこの地を愛し、暮らしの現場から証言してきたのだと思われる。それゆえに若松さんは福島原発がこの地の根源的な災いを引き起こしかねない存在だと直観し恐れていたのだろう。
 3月11日に東日本大震災が起こり、福島第一原発の6基の内の4基に冷却機能が失われて1、3、4が水素爆発で建屋が破壊された。その後も様々なトラブルから放射能が漏れ出て、その汚染水が海にも漏れ出して日本はもとより世界に衝撃を与えている。若松さんは、国や東電の事故を隠し続けてきた体質から、福島原発がいつかチェルノブイリのようになり、南相馬市周辺にも放射能が降り注ぎ、人の住めなくなるだろうと警告していた。
  3月11日の東日本大震災が起きて、福島原発が大変なことになっていると聞いた時に、真っ先に感じたことは、若松さんの警告していたことが現実になってしまったという思いだった。若松さんの電話は留守電のままで連絡が取れずに心配をしていたが、どこかに避難しているだろうと考えて、お見舞いの手紙を書き、その中に2つのこともお願いしたのだった。1つは詩誌「コールサック」(石炭袋)69号に、今回のことをエッセイにしてもらうことだった。もう1つは、コールサック社が現在公募している詩選集『命が危ない 二〇〇人集』の中に、来年私が構想していた『脱原発・自然エネルギー詩選集』の内容を前倒しにして入れ、『命が危ない 三一一人詩集』として公募を延長して今年の夏には刊行することを伝えた。私は全国の原発の周辺の詩人たちに呼びかけて、原発を廃炉にすることや再生可能な自然エネルギーを基本とした生活様式を目差していく詩で参加をして欲しいと伝えた。さらにその『三一一人集』の中に入れる解説者には、若松さんが最も相応しいので、ぜひ解説文を書いて欲しいとお願いしたのだった。しかし若松さんからは何も連絡がなく心配をしていたが、3月の下旬ごろに電話が入った。電話の若松さんは、福島市在住の妻の姉の家に避難されているとのことだった。南相馬市原町は原発から25Hの場所なので、商店も閉まり生活が難しくなり、親族の家に避難したとのことだった。怒りを通り越して今は少し冷静になったと淡々と話されていた。そして今まで書いてきた原発関係の評論などの原稿を自宅に戻りプリントしてきてまとめたので、コールサック社宛てに送ったとのことだった。私の手紙はなぜか自宅には届いていなかったので読まれてはいなかった。数日経って原稿が届き、一読した後にこの内容は多くの人びとに読んでもらう価値があると考えた。タイトルも『福島原発難民』が相応しいと考えて、若松さんに4月の初めに電話をした。若松さんは全面的に任してくれると語ってくれた。私はカバー装丁の写真として若松さんを南相馬市で撮影をしたいと考えて、友人の報道カメラマンの福田文昭さんと一緒に福島に行くことを計画した。
  4月9日には、私に暮らす柏の駅前に朝7時に待ち合わせ、私の車で福田さんと一緒に常磐自動車道に乗り、父母の田舎である福島県いわき市平薄磯を目差した。若松さんの避難している福島市に行く前に、私の父母や祖父母たちの故郷が津波で壊滅的になっていると親族から聞いていたので、様子を見てみたいと考えたのだった。塩屋埼灯台下の平薄磯は、太平洋の荒波に面した半農半業の町で、昔からの海水浴場で民宿やかまぼこ工場も多く、水平線の見える美しい町だった。その町の全てが破壊されて家は木片となり、豊間中学校、豊間小学校の建物の外観以外は、建物の原型をとどめていなかった。自動車も破壊されて鉄の塊だった。約280世帯、約870人の暮らしていた浜辺の町は消えていた。私の従兄は裏山に逃げて助かったという。いわき市は津波だけでなく、30H先には福島原発があるので、放射能の影響もこれから大変になることが思われた。この平薄磯の惨状を目撃して、震源地から近い原発の反対側25Hにある南相馬市の被害がこれ以上であることが直観された。9日は小雨交じりの曇り空だった。平薄磯を後にして福島市に向った。
  福島市には3時頃に頃に着き、若松さんの避難されている親族の家を訪ねた。土曜日だったこともあり、若松さんの二人の息子さんも横浜、千葉から駆けつけていた。若松さんとは明日、放射能が高い飯舘村を通って南相馬市に入り、撮影する場所の打ち合わせをした。翌日の朝7時半に迎えに行き、南相馬市に向った。奥羽山脈を越えて途中の飯舘牛で名高い飯舘村は、山間部の田畑が細長く続く、菜の花や桃の花が咲き乱れるのどかな楽園のような場所だった。しかし外には人の姿を見かけることができなかった。この場所は原発から30H圏外だが、風向きの影響で高濃度に放射能が他の地域よりもひどく舞い降りた。一つの農村が放射能によってあっけなく死の宣告をされようとしていた。国と東電は決して責任を取れないことをしてしまったのだ。
 福島市から飯舘村を抜けて1時間半ほどで南相馬市に入った。1月前まで23000世帯、71000人が暮らす街であったが、ほとんどの店は閉まっていたが、原ノ町駅周辺の商店街の一部の店は開いていた。原ノ町駅近くの若松さんの自宅に着き、若松さんの書斎で私たちは3・11以降の出来事や南相馬市の歴史・文化について話をお聞きした。
 それから私たちは若松さんの写真を撮るために県立原町高校、相馬氏の始祖である平将門が始めたと言われ千年の歴史がある相馬野馬追の祭場などで撮影をした。次に若松さんが関わっていた浮舟文化会館内の「埴谷島尾記念文学資料館」が破壊されていないかを見に行くことになった。しかしその場所のある小高区は、福島原発20H圏内で立入禁止区域となっていて、警察官が検問していていた。並んでいた大半の車は入れなかったが、少数の車が検問を通って行った。私たちは若松さんの資料館の関係者ということで立入禁止区域に入ることができた。小高区は全く無人だった。浮舟文化会館は閉まっていて中には入れなかったが、駅の西側で海からは遠かったため、建物は大丈夫だった。ドア越しに中を見ると埴谷雄高や島尾敏雄などの写真パネルが下に落ちていた。それでも若松さんは津波に流されていなかったことでほっとしていた様子だった。道なりに進み線路を越えて、私たちは駅の東側の小高川河口に近づいて行くと、町が津波にいかに破壊されていたかが分かった。道の両側の会社、商店、民家、数多くの車が無残に破壊されて、田畑の中に残骸が押し流されていた。かろうじて残った家も柱と屋根だけだった。知り合いの家の前を通り過ぎると若松さんは絶句して悲しみに沈んでいた。新聞・テレビで河口付近では白い放射能防護服を着た警官・自衛隊員たちが、数日前から遺体捜索をしていることを知ってはいたが、その現場を目撃することができた。高台の近くの家までもが壊れており、津波が小高川をさかのぼり途轍もないエネルギーとなって小高区に押し寄せてきたことが分かった。広大な敷地の中を防護服の隊員たちは長い棒で行方不明の人びとを探していた。それは砂漠の中で愛する人を探す巡礼者のようにも感じられた。そんな光景を目の当たりにし、検問所に引き返した。その後も私たちは鹿島区の真野川河口の右田浜海岸と烏崎漁港などに向かった。その真野川流域の光景も恐るべきものだった。海沿い、川沿いの多くの家々が破壊されて、生活用品が散乱していた。若松さんも小高川流域、真野川流域の惨状を信じられないと何度も言いながらひたすら堪えているようだった。地震・津波と原発によって町は痛めつけられて、そこに暮らす人びとの生きる力を奪ってしまうようだった。そんな思いを抱きながら私たちは避難所になっている原町第一小学校に行ってみた。講堂を段ボールなどで区切り多くの避難民がいた。入口のテーブルに物資は積まれてあり、食料や水は問題なさそうだった。その避難所の責任者は偶然にも若松さんの教え子の南相馬市農業員会の澤田精一さんだった。「若松先生、お久ぶりです」と言い若松先生と再会を喜び避難民のことを話し合っていた。避難民は疲れているようで布団に横になっている人が多かった。私は家族や友人を亡くされた方に読んでもらおうと持ってきた『鎮魂詩四〇四人集』と日笠明子『絵手紙の花束』などの本を、避難所に本のコーナーがありましたらおいて下さいと手渡した。澤田さんはテーブルを指さして置きましょうと快く受け入れてくれた。若松さんは教え子が活躍する姿に目を細めて眺めていた。澤田さんによるとこの避難所には立入禁止区域の小高区からの人々で、多くは家族・親族の消息が不明なのでここを離れらないとのことだった。私たちが先ほど見てきた場所からここに避難してきたと思うと本当に心が痛んだ。外に出て学校の前を見るとパン屋が店を開けていた。名前は「ふわふわパン工房 パルティール」と書かれてあった。3人で店に入ると沢山の種類のパンが並んでいた。私たちはパンを買い、セルフサービスのコーヒーを入れて、食べることにした。私は店の名物の「黒ゴマパン」などを買った。若松さんや福田さんが店主の只野実さんに話しかけると、只野さんの大震災後の奮闘記を聞くことができた。地震後は3日間、市の要請でパンを焼き続け、避難民たちに提供したという。材料が入ってこなくなり一時は市外に避難していたが、材料の入手の目途が付いて戻ってきてこうしてパンを焼き続けているという。只野さんは若い頃に仙台で修行中に宮城県沖地震に遭遇しているので、大丈夫だと語っていた。話している間もお客がやってきてパンは売れていた。私は三斤の食パンや子どもの顔ほどある餡パンなどを買い家族のお土産にした。私は只野さんが多くの避難民を勇気づける真の勇者のように思われた。カメラマンの福田さんは南相馬市に留まり撮影を続行したいといい、原ノ町駅前で別れた。私と若松さんは、福島市に戻るために飯舘村方面に向かったのだった。このような経緯を経て本書は成立していった。
 本書は、序詩「みなみ風吹く日」から始まっている。1971年からこの詩が書かれた2007年まで、福島原発で起こった臨界事故などの事実を隠してきた東電の体質を批判した詩だが、この偽装の歴史が大きな破局を迎えることを予言している詩だと感じられる。冒頭のエッセイ「大熊―風土記71」は1971年の福島原発が発電を開始した年に書かれたものだ。福島原発のある大熊町という場所がいかに歴史を刻んできたか語りながら、原発を推進した者たちがその歴史を踏みにじろうとしているかを冷静に分析し、原発の危うさを根本的に指摘している。若松さんの視線はこの40年間、少しも変わらずに原発を告発し続けてきた。チェルノブイリにも行き、南相馬市と同じ25Hに地点はどのような放射能の被害を受けているのかを南相馬市の未来として予言している。また原発従事者の中で詩や短歌を作っている人びとの苦渋に満ちた作品も紹介し、原発が地域住民を取り込みながら被曝者とさせていく悲劇を抉り出している。原発の悲劇を直視して自らも難民となった若松さんの告発・警告の書である『福島原発難民』を、原発と人類は共存できないと考える人びとや、また原発推進者であったが疑問を持ち始め、自然エネルギーの可能性を模索しようとする多くの人びとに読んでほしいと願っている。